河野慶三コラム 産業医の方へ

第2回 精神疾患の診断をめぐって

 職場におけるメンタルヘルスケアを進めるうえで様々な困難を生じさせる要因の第一としてあげられるのは、精神疾患の診断の問題である。身体疾患の多くは、原因、病態が分子生物学的なレベルで解明され、診断には再現性のある生化学的、生理学的な数値や画像が使われている。それに対して精神疾患の場合は、代表的な疾患である統合失調症、双極性障害、うつ病のどれをとっても、原因は不明であり、それぞれが疾患としての独立性を持っているかどうかも明らかになっていない。さらに、病理解剖をしても、それぞれの疾患に特異性のある組織学的な所見も見いだせない。したがって、精神疾患の診断を身体疾患と同列に考えることはできない。精神疾患の診断について議論するときには、この認識を共有しておくことが必須である。

 1970年代に入ると、それまでの「精神病理学的診断」方法では、たとえば、統合失調症の診断ひとつをとってみても、複数の精神科医の診断が一致しないという致命的な問題が指摘されるようになり、どうすれば医師の診断を一致させることができるかが、医学の一部である精神医学として大きな課題となっていた。
 そうした状況下で、1980年にアメリカ精神医学会が世に問うたのが「精神疾患の診断・統計マニュアル第3版(DSM-V)であった。DSM-Vのもっとも大きな特徴は、精神病理学的因果論を捨て、精神徴候(psychiatric symptoms and signs)の組み合わせとそれらの徴候の持続期間、日常の社会生活への影響の程度と合わせて診断を行うことであった。徴候の正確な把握には患者が自分のありのままを述べてくれることを前提とする必要はあるものの、DSMの新しい診断基準に厳密にしたがえば、精神疾患の診断に医師による不一致が生ずることは防げる。この提案は国際的にも広く支持され、DSMは精神疾患診断のグローバル・スタンダードとなった。現行の「DSM-5」は2013年に改訂されたものである(DSMの5から表記法がDSM-Xではなく、DSM-5に変更されている)。

 しかし、当然のことながら、精神病理学的診断による統合失調症とDSM-Vで診断された統合失調症が同じであるという保証はない。これは、統合失調症という疾患の原因と病態が、身体疾患と同じように生物学的な指標によって示されるまでは、いくら議論をしても決着がつかない問題である。DSM-Vで診断されるのはあくまでも「症候群」なのだ。症候群ということであれば、そうした徴候を示す疾患が複数ありうることは自明である。症候群の背後にある疾患が複数であれば、理論的にはその治療法も複数あることになる。徴候に合わせた対症療法には効果がある例もあればない例もあることも容易に推察できる。
 この根本的な問題は、精神医学には、すでに触れたとおり、診断に用いる徴候の多くを面接、心理テストなど患者の意思にもとづく話や記述をとおして把握しなければならないという方法上の制約に繋がっている。医師・患者関係のありようによって、集められた情報の質、量に違いが出てくることが避けられないのである。これは診断に直接影響する。
 さらに、このところの患者数増加は、精神科外来での患者一人当たりの診察時間の顕著な減少を生じさせていて、DSMに記述されている徴候をきちんと把握するための時間が不足する危険性も出ている。これは、患者の話を十分聴けないまま、うつ病、適応障害などの比較的ポピュラーな病名をつけてしまうという「過剰診断」に繋がっているのではないかと危惧している。

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このコラムの執筆者プロフィール

河野慶三先生

河野 慶三 氏(新横浜ウエルネスセンター所長)

名古屋大学第一内科にて、神経内科・心身医学について臨床研究。
厚生省・労働省技官として各種施策に携わる。
産業医科大学、自治医科大学助教授など歴任。
富士ゼロックスにて17年間にわたり産業医活動。
河野慶三産業医事務所設立。
日本産業カウンセラー協会会長歴任。
平成29年より新横浜ウエルネスセンター所長に就任。