第3回 「うつ病(DSM−5)」の職場復帰困難事例

周知のとおり、「うつ病(DSM−5)」診断の第一段階は、ほとんど1日中続く「抑うつ気分、興味または喜びの喪失」の2徴候のいずれかまたは両者を含む、@体重減少または体重増加 A不眠または過眠 B疲労感または気力の減退 C思考力や集中力の減退など7つの徴候(あわせて9徴候)のうち5つ以上の徴候が2週間以上続けてあり、そのために社会的、職業的などの機能が障害されていることの確認である。第二段階は、そうした徴候の原因となる物質や身体疾患がないこと、統合失調症スペクトラムの症状として説明できないこと、躁病または軽躁病エピソードがないことの確認である。
このプロセスでは、第一段階で症候群としての症候を特定し、第二段階でその症候群を生じさせることが知られている身体疾患と物質のチェック、さらに鑑別できる可能性の高い精神障害を除外している。DSM−5では、この条件を満たす病態はすべて「うつ病(DSM−5)」と診断される。
産業医活動の現場でみる「うつ病」の診断書が、DSM−5で示されたプロセスを踏んで書かれているものかどうかは産業医にはわからないが、診断書を提出した労働者に面談すれば、「うつ病(DSM−5)」に該当するかどうかのおよその判断はできる。
現場で見ていると、うつ状態があれば即うつ病といったレベルの診断書が少なくないが、ここで取り上げる話は、産業医が当該労働者に面談を実施し、そのプロセスをとおしてこの第一段階を確認できた職場復帰困難事例についてである。第1回の「職場復帰困難者のチェックリスト」で取り上げたとおり、職場復帰困難であることの要因として医学的な判断が不適切であることを指摘できる事例が存在する。
そのひとつは「軽躁状態」の見落としである。この場合は、第一段階の約束事に反しているので、「うつ病(DSM−5)」の診断がまちがっていたことになる。これは「双極性障害」と診断されなければならない事例である。二つ目は、併存症である「発達障害」、「パーソナリティ障害」、「解離性障害」などの見落としである。この場合は第一段階、第二段階の両者を満たしているので、「うつ病(DSM−5)」の診断そのものはまちがってはいない。しかし、併存症が、「うつ病(DSM−5)」の発症、経過、治療のプロセスに大きく影響していることの把握ができていないことが問題である。
1)双極性障害
従来から、うつ病者であっても環境要因に反応した短期的な気分の変動はみられるので、うつ状態にしては元気がいいと感じられる場面がときおりあってもおかしくないとされている。この気分の変動と軽躁状態との客観的な鑑別法は現在でも確立されていないといってよい。そうした状況にあるので、ここでは、「DSM−5の定義を満たす軽躁状態の見落とし」に話を限定しておきたい。DSM−5では躁状態の基本的症候として、気分の異常な高揚・活動性の亢進が持続的にみられ、開放的または易怒的になり、そうしたその人の日常とは明らかに異なる状態が1日の大半を占め、ほぼ毎日続くこと。それに加えて、@自尊心の肥大または誇大 A睡眠欲求の減退 B多弁、しゃべり続けようとする切迫感など7項目のうち3項目以上が確認できる(気分が易怒的である場合は4項目)ことをあげている。躁状態と軽躁状態の違いのポイントは、症状の持続期間の違い(1週間と4日間)、社会的機能の障害の程度の違いである。
双極性障害の治療では、うつ病エピソードであっても、「うつ病(DSM−5)」に用いる抗うつ薬は原則として使わない。経験的に抗うつ薬が躁状態を生じさせるきっかけになったと考えられる事例が知られていることもあるので、気分安定薬を用いて気分の変化の振幅を小さくすることを目指す。また、本人が自分にとって快適だと感じるレベルの気分を持続させることは、軽躁状態を引き起こす背景要因となるので、治療のゴールを本人が自分にとって快適だと感じるレベルの80%程度に設定して日常活動をコントロールする。軽躁状態になるとうつ状態がそれに続き、職場復帰を遅らせる要因となることを本人にしっかり理解させることが重要である。そうではあるが、双極性障害は環境にさしたる変化がなくても生物学的な「気分の波」として生ずることが少なくないことも周知の事実である。
2)併存症
このところ、うつ病(DSM−5)の併存症として目立つようになり、関心が高まっているのが知的障害を伴わない自閉症スペクトラムの事例(従来はアスペルガー症候群とよばれたもの)である。
うつ病(DSM−5)で休務し、治療によってうつ状態が改善したことを確認して職場復帰をさせるのだが、短期間でまたうつ病(DSM−5)が再燃し休務に至るというプロセスを繰り返している事例の中に、併存症としてのアスペルガー症候群が見落とされている者が存在する。
従来の精神医学では、こうした発達障害は子供の病気として扱われていた。今から考えると不思議だが、精神科医を含む多くの医師が大人の発達障害の存在を認識していなかった。そのため、的確な診断がされていないという実態があった。アスペルガー症候群は、発達という時間軸をはずして横断的にみれば、パーソナリティ障害にみえるのである。
この10年ほどの間に、社会的な関心が高まったことを反映して、アスペルガー症候群を積極的に診断しようとする機運が広がった。その結果、アスペルガー症候群の患者がもつ、コミュニケーションの障害、(その背景要因としての、他者の気持ちを理解しようとするドライブの欠如)、物事への強いこだわり、複数のことがらを同時に処理することの困難さ、音や光などの知覚の過敏性など、組織の中で活動していくことを妨げる特性ゆえに、職場内での人間関係に齟齬が生じ、それが大きなストレス要因となってうつ病(DSM−5)に至るプロセスが明らかになってきたのである。このようなうつ病(DSM−5)は、多くの場合、休務して治療すればよくなる。しかし、背景にあるアスペルガー症候群に手をつけないまま復帰させたのでは、同じことの繰り返しになることは自明である。
そうは言っても、アスペルガー症候群の治療は極めて困難で、組織における事例性を減らすことを目指した対処法で臨むしかない。障害があることを事業主、労働者の双方が認めることを前提として、本人の居場所を職場にどう作っていくかが課題となる。
障害者の雇用の促進等に関する法律(昭和35年法律第123号:障害者雇用促進法)にもとづいて出された「障害者に対する差別の禁止に関する規定に定める事項に関し、事業主が適切に対処するための指針(平成27年厚生労働省告示第116号:障害者差別禁止指針)、「雇用の分野における障害者と障害者でない者との均等な機会若しくは待遇の確保又は障害者である労働者の有する能力の有効な発揮の支障となっている事情を改善するために事業主が講ずべき措置に関する指針」(平成27年厚生労働省告示第117号:合理的配慮指針)は、この居場所づくりを事業主の義務として定めている。
事業主がこの義務を果たすには、本人がもつ障害の特性を認識することおよびそれを周囲に理解してもらうことが必須である。事業主がその作業を進めるうえでの支援を、産業医は担わざるをえない。