第10回 健康問題を理由にした労働者からの「配置転換」要求への対応

安全配慮義務は、労働者の健康に不調があるときには、それがたとえ「私病」であっても就業上の配慮をすることを事業者に求めています。その配慮の内容が配置転換であることも当然ありえます。配置転換の要求が労働者から出された場合、事業者の人事権や職場の秩序維持権とのかねあいで問題が生じることがあります。また、そうしたくても適切な業務がないこともあるでしょう。
この問題への対処法についての現在の定説は、健康問題を理由にした労働者の配置転換要求には、事業者は、産業医など専門家の意見を聴き、その労働者を配置できる現実的可能性がある他の業務を探すなど就業につき一定の配慮をしなければならないです。事業者の一存で決めてしまってはいけません。
この定説の根拠となったのが、片山組事件の最高裁判所の判決(平成10年第一小法廷)です。最高裁判所はこの判決で、「現に就業を命じられた特定の業務について労務の提供が十全にできないとしても、能力、経験、地位、その企業の規模、業種、その企業における労働者の配置・異動の実情および難易などに照らして、その労働者が配置される現実的可能性があると認められる他の業務について労務の提供をすることができ、かつその提供を申し出ているならば、労働契約の本旨にしたがった債務履行の提供があると考えるべきである」と述べています。
ご承知のとおり、労働契約には業務を特定したものと特定しないものがあります。日本では、業務を特定しないタイプの契約が多数を占めています。片山組事件の判決は、後者の契約をしている労働者に対するものです。元の業務が健康上の理由で十分遂行できない場合、事業者は労働者が従事できる他の業務を探し、本人の同意を得て、その業務に配置転換する必要があることになります。配置転換要求を断ることができるのは、探してもそうした業務がみつからないときとみつけても労働者がその業務に就くことに同意しないときに限られます。
表 片山組事件の概要と裁判所の判断
片山組は、土木建築の設計施工請負を業務とする、資本金約6億5千万円、従業員約130名の株式会社である。片山組で工事監督業務に従事してきた男性従業員が、病気のため現場作業ができない旨を会社に申し出、事務作業への配置転換を求めた。そこで、会社が診断書を提出させたところ、診断書には、「バセドウ病で薬物治療中である。今後厳重な経過観察を要する」と書かれていた。
会社は、就業困難と判断し自宅治療(休職)を命じたところ、本人は「重労働は控え、デスクワーク程度の労働が適切と考えられる」旨の診断書を再度提出した命令の撤回を求めた。会社は、「病気は治癒しておらず、現場復帰は困難である」と判断し、従業員の要求を断った。
提出された診断書について産業医の意見は一度も聴取されていなかった。
東京地方裁判所の判決(1993年)
自宅治療命令は、原告の現場監督業務への就業を拒否するとともに、病気治療に専念すべきことを命じている。原告は、当時、治療を必要とする状況にあった。被告は、このような場合に、従業員の健康配慮義務および職場の安全管理義務を負い、職場の秩序維持権限を有しているのだから、原告に就業を認めるかどうかの裁量権をもっている。しかし、被告は、その判断に際し、産業医等の専門家の判断を求めるなどさらなる客観的な判断資料の収集に努めるべきであったとし、自宅治療命令は手続き的に相当性を欠いていると判断した。
東京高等裁判所の判決(1995年)
労働者が、使用者に対し、私病を理由として労務の一部のみ提供が可能であるが、それ以上の労務の提供ができないことを申し出たときには、その私病の性質・程度・その労働者の労務の内容などに照らし、労働者の申出に疑念をもつのが相当といえる事情がない限り、使用者の立場から格別の医学的調査をする必要はないとし、東京地方裁判所の判決を取り消した。
最高裁判所の判決(1998年)
本文で引用した考え方を示し、その点が具体的に審理、判断されていない東京高等裁判所の判決には誤りがあるとして、それを破棄し、東京高等裁判所に差し戻した。
差戻審の東京高等裁判所判決(1999年)
会社が、原告以外の現場監督者を従事させ、原告に遂行可能な事務作業をさせることは可能であったとし、会社が出した自宅治療命令は適法でなかったと判断した。2000年に、最高裁判所は、会社側の上告には理由がないとしてそれを棄却し、東京高等裁判所の判決が確定した。