第10回 産業医のみが注意義務違反で労働者から訴えられ、敗訴した事例

前回の「産業医の職場巡視」の話で、最近は安全配慮義務をめぐる民事訴訟で、事業者の安全配慮義務の履行に関して産業医の支援の在り方が問われることが多くなっていることに触れた。
その話との関連で、今回は、2011年に出された大阪地方裁判所の判決(平成22年(ワ)第9240号 損害賠償請求事件)を紹介する。この訴訟では、事業者は訴えられておらず、産業医のみが産業医としての注意義務違反(不法行為)をとわれた。
ちなみに、安全配慮義務履行の法的責任は事業者にある。したがって、安全配慮義務違反を理由とする訴訟では、必ず事業者が訴えられ、産業医のみが訴訟の対象になることはない。しかし、産業医には産業医としての注意義務があるので、不法行為を理由とした民事訴訟では、このように産業医のみが被告となることはありうる。
原告は、大阪にある財団法人に1987年から勤務している男性である。1997年6月に「自律神経失調症」と診断され、それ以降心療内科に通院し治療を受けていた。2008年6月に人事異動を契機として状態が悪化し、6月29日から休職、自宅療養を続けた。休職後3か月あまりが経過した10月の段階で、病状は2009年1月をめどに職場復帰を目指す程度に回復していた(裁判所の認定)。
原告の上司である係長が産業医面談を設定し、2009年11月26日、勤務先近くの喫茶店でその係長立会いのもとに産業医面談が行われた。面談時間は約1時間であった。
原告は、12月2日に、産業医面談後に自律神経失調症が増悪したとして、主治医とは別の医師を受診(その理由は不明)、3日後の5日に主治医を再度受診した。主治医は、産業医面談が引き金となって症状が悪化したことを認め、翌2010年1月末までの自宅療養が必要と診断した。その後も引き続き療養を続けたところ、4月には勤務が可能と考えられるレベルにまで回復し、4月27日に復帰した。
産業医面談についての原告と被告の主張はつぎのとおりであった。
原告の主張
- 産業医は、原告が封筒に入れて差し出した診断書を見なかった。
- 産業医は、自律神経失調症などという病気はないと言い、原告の病気は自分が作り出しているものだと決めつけた。
- 産業医は、原告の話を聞こうとせず、被疑者の取り調べのような対応をした。
- 産業医は、涙を流している原告に、薬に頼らずに自分で直さないといけないと言い、頑張れと言った。
被告の主張
- 面談の目的は、復職判断ではなく、会って話を聴くことであった。
- 薬だけで治すのは難しいと発言したこと、励ましの言葉をかけたことは認めるが、原告を詰問したり、原告の人格を否定するような発言をした事実はない。
- 原告が涙を流したという事実はない。原告はずっと下を向いており、産業医の言葉に反応を示すことはなかった。
裁判所の判断
裁判所は、「自律神経失調症の患者に面談する産業医としては、安易な激励や、圧迫的な言動、患者を突き放して自助努力を促すような言動により、患者の病状が悪化する危険性が高いことを知り、そのような言動を避けることが合理的に期待されるものと認められる」と述べて、被告は産業医に求められる注意義務を怠ったと判断した。
この産業医面談によって病状が増悪し、職場復帰の時期が遅れたことの損害に対して30万円、精神的苦痛に対する慰謝料として30万円、合わせて60万円の支払いを命じた。
この民事訴訟は、産業医としての不法行為を理由として表に示した民法第709条の規定を根拠に産業医のみを相手どって起こされたものである。
原告の主張からは、自分が産業医にまったく受け止めてもらえず、すべては自分のせいだから頑張れと突き放されてしまったことに対する怒りと、それに対してなすすべがなかった自分への悔しさが読み取れる。客観的な事実はともかく、原告は産業医の話をそのように感じたのである。
被告の主張Aは自分の発言が相手にどう影響するかについての産業医の内省が欠けていること、主張Bは「産業医の言葉に反応を示すことがなかった」意味を原告の立場にたって考える姿勢が産業医にないこと、を自ら示していると言わざるをえない。メンタルヘルス不調者への産業医対応に求められる基本的な事項が守られていないことは明らかである。判決の根底にある裁判官の心証もそうなっていたものと推察される。
一般論として、訴訟が、労働者にこうした対応しかできない産業医を選任した事業者にも責任があるという方向に向かうことは十分ありうるが、この原告はそのようには考えなかった。そのため、この訴訟では、民法第715条が規定する注意義務違反医に関する使用者責任や、民法第415条にもとづく安全配慮義務違反はまったく争点にならなかった。
なお、原告は、この判決を不服として大阪高等裁判所に控訴したが、最終的には控訴を取り下げ和解した。この判決からおよそ7年が経過しているが、筆者の知る限りでは、こうした判決は出ていない。
表 民法の関連条文
第415条 (債務不履行による損害賠償)
債務者がその債務の本旨に従った履行をしないときは、債務者は、これによって生じた損害の賠償を請求することができる。債務者の責めに帰すべき事由によって履行をすることができなくなったときも、同様とする。
第709条(不法行為による損害賠償)
故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
第715条(使用者等の責任)
- ある事業のために他人を使用する者は、被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったときは、この限りではない。
- 使用者に代わって事業を監督する者も、前項の責任を負う。
- 第2項の規定は、使用者又は監督者から被用者に対する求償権の行使を妨げない。