第13回 トランスジェンダーの自殺をめぐる事業者責任

この4月1日から性別適合手術が健康保険適用になるなど、トランスジェンダーに対する社会の対応が大きく変化している。今までトランスジェンダーがかかわる職場の出来事が事業者責任の問題として法廷で争われることはほとんどなかったとされているが、地方都市に本社を置く500人規模の企業U社で2009年に起こった自殺事例の判決を、少し長くなるが、紹介する。
【U社(性同一性障害・解雇等)事件 山口地裁岩国支部 平22.3.31判決、広島高裁 平23.6.23判決】
事例の紹介
- 女性「K」は、会社の秩序を乱したという理由で、2008年11月21日付けで解雇された。Kは母親の強い勧めにしたがって、地位保全を求める仮処分を裁判所に申立てたが、その審理の継続中である2009年1月26日に自宅で縊死した。
- Kの所属部署「B」は男性部長「E」と女性従業員K、「S」、「C」の3人、合わせて4人で構成されていた。Kはパート従業員から本採用され、部署Bに配属されてまもない従業員である。
- 解雇理由は、
- 就業時間内に社屋内に正当な理由なく刃物(書類切断用カッター)を持込み、その刃物によりリストカットを行い、さらにリストカットの事実をCに告げてその恐怖心を煽った。また、リストカットの傷をSに意図的に見せ、その恐怖心、不快感を増大させ、会社内の風紀秩序を著しく乱す行為に及んだ
- このような行為が原因となり、部署B所属の女子従業員S、Cの2名が退職を申し出るまでの事態に発展したこと
- Kは自分がトランスジェンダーであることに悩んでいたが、配属された部署BでSに出会い、好意を持つようになった。その好意をSに直接伝えたいと考え、Sから「つきまとい」と思われるような行為をした。さらに、10年以上していなかったリストカットを職場で行い、その傷をCに見せて自分がトランスジェンダーであることをカミングアウトした(2008年11月4日)。
職場での2度目のリストカットの後で、KはCにSと話をしたい旨を伝えた。KはCに立ち会ってもらってSに会い、見たくないというSにリストカットの傷を見せて、自分はトランスジェンダーであること、Sに対して男としての好意を持っていることを告げた(11月7日)。 - SはKの話に強い衝撃を受けた。職場でリストカットをしたり、自分につきまとったりしていることもあり、Kに対して恐怖心や不安感を感じて、Kの恋愛感情に応えることは無理だと話した。SはKとの接触を完全に断ちたいと考えた。
- Sは、管理監督者であるE部長にいきさつを話し、Kと仕事をすることはストレスが大きく心身ともにまいっているので退職したい旨を伝えた。E部長は、C同席のもとでSの意思を再度確認したが、Sの退職の気持ちは変わらなかった。CもSが退職したら、Kと一緒に仕事をする自信がないと話した(11月11日)。
- E部長が、Kに対してSが困っていることを告げたところ、KはSに直接謝りたいとこたえたので、Cも含めた4人で話し合った。KはSに辞めないように懇願したが、SはKとは一緒に仕事をすることはできないとこたえ、退職する旨を告げた。これに対してKは、Sが辞めるのはよくないので自分が辞めると述べた。E部長はこれをKの退職意思の表明と受け止めた(11月12日)。
- 社内では退職に向けた動きが進んでいたが、Kが母親に退職の話をしたところ、強く反対された。母親の意見に従ってKは退職の撤回を会社に申し入れ、弁護士に会社との交渉を依頼した(11月17日)。
- 縊死しようとしたが未遂。Kと母親はこの出来事を秘匿した。この際に書かれた母親宛ての遺書には、退職を撤回することについてのKの葛藤が記されていた(11月18日)。
- Kは会社からの解雇通知(11月21日)に対して仮処分の申請を裁判所に行った。この時期にKはS、E部長など、社長宛てに書状を出し、関係者と対立する意思のないことを述べるとともに、迷惑をかけていることについて謝罪した。母親はその書状の存在を知らなかった。
- Kはトランスジェンダーであることの証明を求めて病院を受診した(12月10日)。
- 仮処分のための第2回審尋で、会社が和解の可能性を裁判所に伝えたことから、裁判所は和解を勧告するとともに、3回目の審尋日を2009年2月17日に指定して和解の協議をすることを決めた(2009年1月20日)。
- Kはクリニックを受診した。うつ状態と診断され、向精神薬5日分を処方された。しかし、この情報は会社には伝えられなかった(1月23日)。
- Kが自宅で縊死。遺書には「皆さん、ありがとうございました。そして、さよなら。迷惑かけてすみません」と書かれていたが、その遺書には宛名はなかった(1月26日)。
Kの両親が原告となったこの訴訟では、会社とSが被告とされている。
会社に対しては、原告はトランスジェンダーであるKを毛嫌いするSとの雇用を継続するために(Sは入社後8年のキャリアのある従業員)、会社がトランスジェンダーに対する差別意識にもとづいて解雇権を濫用したと主張し、その行為は債務不履行あるいは不法行為に該当するとして、その損害を賠償することを求めた(損害としてKについては慰謝料3000万円と死亡による逸失利益5200万円あまり、原告2人に慰謝料として各500万円)。
Sに対しては、Kを毛嫌いして、Kを退職させなければ自分が退職すると会社に主張し、Kの解雇に故意または過失をもって導因を与えたとして、不法行為責任を追及した。
一審の山口地裁岩国支部は、会社の示した解雇理由①をすべて否定、解雇権の濫用を認めた。そして、解雇にまつわるKの精神的苦痛に対して200万円の損害賠償を会社に命じた。しかし、解雇と自殺との関係については、「人的関係の毀損という事情が解雇による失職そのものよりも大きく作用していた可能性も否定できず、本件解雇それ自体が直接にKに対して自殺の意思を喚起したものと断定することは困難というべきである」と述べて、会社の予見可能性を否定した。解雇と自殺の相当因果関係が認められないことから、Kの逸失利益、原告である両親の慰謝料の請求はすべて退けられた。
また、Sについては、「会社における従業員の雇用方針に影響力を行使しうるような立場にいたことを示す証拠は全くない」と断じて、不法行為の存在を否定した。
原告は敗訴部分について控訴し、Sの不法行為に関する会社の使用者責任についての損害賠償請求を追加した。会社は控訴しなかった。
控訴審の広島高裁は、一審の判断を積極的に支持し、会社の安全配慮義務違反を否定した。さらに、「自分が退職するとのS等の言動は、Kに誘発されたものであって、Kに対する嫌がらせないしいじめであると評価することはできない」、「Sの言動は、Kから受けた精神的な衝撃の程度に照らせば、自然なものというべきであって、会社に対してKを違法に退職させるよう迫ったものということもできない」、「Kにうつ病が発症することをうかがわせるような事情については、Sには何らの認識もなかったものとうかがわれる」と述べて、Sの行為に注意義務違反がないとした。その結果、一審の判決が維持され、高裁でも解雇にまつわるKの精神的苦痛に対する200万円の損害賠償のみが認められた。
原告は最高裁に上告したが不受理となり、控訴審判決が確定した。
原告は、Kがトランスジェンダーであることに、会社やSが偏見をもって対処したことを問題として提起したが、K本人は会社やSからそうした扱いを受けたと感じてはいなかった。また、判決文を見る限りにおいてではあるが、会社、SともにKがトランスジェンダーであることについて偏見をもった言動をしていない。原告とくに母親の認識とKの認識に大きな乖離があったことは明らかであり、その乖離にKが悩み、母親と会社やSとの板挟み状態になってしまったことが読み取れる。
ところで、KがSに対して恋愛感情に近い好意をもったことは、Kがトランスジェンダーであることを考えると、自然なことである。しかし、Sにとってみれば、それを自然なものとして理解することは困難であり、Kの考えや行動に気持ち悪さを感じたとしても、これまた自然なことである。ただ、KがSに対する気持ちを職場内でのリストカットをすることを梃子にして伝えようとした行動には問題があった。そうした短絡的な行動が、退職問題を引き起こした。そして、その問題行動に会社が巻き込まれてしまった。他部署への配置換えなどについて十分検討していないことを主たる根拠として、会社は裁判所から解雇権の濫用との判定を受け、損害賠償をしなければならなくなった。
今後、こうした問題が日本の多くの職場で生じる可能性があるので、各企業はその対策を考えておく必要がある。
トランスジェンダーへの対応の第一線にいるのは現場の管理監督者なので、管理監督者の無関心や無知に起因する部下との心理的な行き違いを防ぐために、管理監督者を対象とした教育をしなければならない。そのなかで、「トランスジェンダーに対する差別は人権にかかわる問題であり、会社はそれを排除すること」を明確に示す必要がある。また、今回の事例でも、KやSが自分の困った気持ちを安心して相談できる仕組みがあれば、自殺に至るプロセスに対処できた可能性があるので、心の問題について相談できる態勢を整えておくことも大切である。ちなみに、この訴訟では、産業医の関与についてはまったく話題になっていない。