第19回 産業医意見が意見として許容される範囲を逸脱していると指摘され、事業者が敗訴した事例

神奈川SR経営労務センター事件
原告は、被告である労働保険事務組合(神奈川SR経営労務センター)に、2008年から勤務しているG(判決文には性、年齢の記載がない)である。業務内容は、事務組合の窓口業務・電話対応・書類整理などであった。
ちなみに、Gはこの訴訟とは別に、この保険事務組合を被告とした2つの訴訟を提起しており、その結果はつぎのとおりであった。
第一訴訟
- 【2011年7月】
- Gは主任Zによるパワーハラスメントを理由として横浜地方裁判所に損害賠償請求を起こした。2012年11月に和解金70万円で和解した。和解内容はGの主張を認めたものであった。
第二訴訟
- 【2013年9月】
- Gは第一訴訟の和解条項の不履行とZによるハラスメントが続いていることを理由として、横浜地方裁判所に損害賠償請求を起こした。
- 【2015年1月】
- 地裁で請求が棄却されたため、東京高等裁判所に控訴した。
- 【2015年8月】
- 高裁は、第一訴訟の和解条項の再発防止義務・周知義務の不履行および名誉棄損の成立を認め、330万円の支払いを命じた。事務組合は最高裁判所に上告した。
- 【2016年2月】
- 上告は不受理となり、高裁判決が確定した。
今回の訴訟は、時期としては、東京高裁での第二訴訟の控訴審中に提起されたことになる。事件の概要を時系列で示すとつぎのとおりであった。
- 【2014年5月1日】
- Gは体調不良を理由に休み始めた。症状は、不安、気分の落ち込み、不眠、食欲不振、考えがまとまらない、希死念慮であった。背景としては、パワーハラスメントの行為者として第一訴訟の被告でもあった主任のZが、産休・育児休職が終了して5月には復帰することになったという事情があった。
- 【2014年5月15日】
- GはCクリニックを受診した。Gは「うつ状態」と診断され、そのまま休務した。
- 【2014年9月8日】
- Gの休務が続いたため、事務組合は、就業規則にもとづいて、 2014年9月8日から2015年6月7日までの休職を命じた。この休職期間中に、事務組合の産業医QがGと接触した形跡はない。
- 【2015年5月8日】
- 事務組合はGに、休職期間の満了日が6月7日なので、復職を希望する場合は、復職希望届と主治医の診断書を提出するように通知した。
- 【5月21日】
- Gは、C医師の「復職可能」との診断書を添えて6月1日に復帰する旨の届出を行った。
- 【6月8日】
- Gは、事務組合指示によるQ産業医の面談を受けた。面談時間は40分程度であった。
- 【6月12日】
- C医師は、Q産業医の求めに応じて診療情報提供書を書いた。その内容は、「職場復帰への意欲はあるものの、強い不安があり、職場との環境調整が必要」というものであった。
- 【6月18日】
- 事務組合は、従前の職務に復帰させることは不可能と判断し、休職満了との通知を行った。
原告の主張
- 主治医Cは復職可能と言っている。
- 2014年秋頃からウォーキングを始め、1日おきに4km程度歩いている。
- 2014年10月に地裁で行われた第二訴訟の原告尋問を受け、2015年1月の第二訴訟の地裁判決、6月の高裁の控訴審口頭弁論期日にも出廷しているので、健康状態は回復している。
- 産業医Qとの面談でも、体調はよく健康を実感していると述べ、復職の意欲が強いことを示している。
被告の主張
- Gには性格の極端な偏りがあり、それが適応障害を起こしている。うつ状態は適応障害の症状である。
- 一定の支配観念にとらわれている。これは統合失調症でもみられる症状のひとつである。
- うつ状態はよくなったとしても、@の性格の偏りやAの支配観念を治癒させるにはさらなる治療が必要である。主治医Cも「職場復帰への意欲はあるものの、強い不安があり、職場との環境調整が必要」と言っている。
- 自分の行動分析も含めて客観的な振り返りができず、冷静に内省できているとは言い難い。再発防止のために必須である、組織の一員としての倫理観、周囲との融和意識が乏しい。自分の症状発現の一義的原因は組織の対応および周囲の職員の言動であるとして、組織および職員を誹謗し続けている。したがって、Gが他の職員と協力して業務を行うことは困難であり、仮に復帰させたとしても適応障害が再発する可能性が高い。
裁判所の判断
- 休務時にみられた症状は消失し、薬の服用もしていない。したがって、原告主張の@〜Cは首肯できる。
- 産業医Qは、意見書と証言で、Gの症状は精神科領域の対応や治療を必要とするものではないとも述べているが、これは被告の主張Bの前段と矛盾する。また、精神科医であるJ医師は、Gが統合失調症、人格障害であることを否定している。
- Gの発症の背景にZのパワーハラスメントとそれに対する事務組合の対応の不適切さがあるので、主治医Cが職場環境調整の必要性を指摘することは自然である。
- 争点であるうつ状態の有無について、うつ状態は消失したとする原告の主張に対する被告の反証ができていない。
- 被告主張Cは、産業医に求められている「うつ状態」が軽快しGが元の仕事に復帰できるかどうかの判断とは関係がない。
裁判所は@〜Dを根拠として産業医の意見と証言は到底信用できないと判断し、Gの休職期間満了による退職を取り消した。
この訴訟の被告は小規模事業者であるが、退職の手続きに関しては、産業医の意見聴取も行っており、形式的には問題がない。産業医も主治医に情報提供を求めており、手続きとしてこの点もよい。
問題は産業医の意見にある。一言でいうと二つの点で「踏み込み過ぎた」のである。
- 40分の面談一度で、Gのパーソナリティついての判断をし、パーソナリティの偏りが一連のエピソードの原因であると考えたことなど、精神症状の把握やその説明が、専門家を納得させるレベルで行われていないこと。すなわち、能力的にみてできないことをしてしまった可能性があること。
- 職場秩序の維持は事業者に課された課題である。産業医にとっても、職場環境の快適さを求めるうえで重要であるが、産業医には秩序維持そのものを担う役割は期待されていない。それにもかかわらず、そこまで踏み込んだこと。
この判決は、(2)について明快な判断をしている。私たち産業医や産業保健スタッフは、知らず知らずのうちに、Q産業医と同じような行動をしている可能性がある。日常の活動で常にこのことを点検していくことが大切である。
(1)について、第一訴訟の和解、第二訴訟の判決からすれば、Gがハラスメントの結果として、そうした考え方や行動特性を持つことになった可能性は、容易に推測できる。しかし、それ以前からそうであった可能性も十分ある。したがって、そこは詰めておきたいところだが、この判決文にはその情報がまったくない。
第10回では産業医のみが労働者に訴えられ敗訴した事例を紹介して注意喚起を促したが、今回の事例も日常の産業医活動において産業医がこころしておくべき課題を提示している。